木村定三コレクションによる
熊谷守一展
熊谷守一(1880-1977)と青木繁(1882-1911)が東京美術学校西洋画科で同級生だったことを知ると、
驚く人は多い。青木繁が28歳で他界したとき、元号はまだ明治であった。
一方熊谷が亡くなるのは昭和も後半の50年代である。青木が明治を代表する画家であるのに
対し、熊谷は1909(明治42)年の第3回文展に出品した《蝋燭》によって画家としての第一歩を
歩み始め、二科展に1915(大正4)年の第2回展から出品しているとはいえ、熊谷の画業全体の
比重からすると昭和の画家といえる。青木が早熟の天才ならば、熊谷は大器晩成型である。
というよりもむしろ、熊谷はあくまでマイペースで制作していただけで、世間的な評価が
次第に高くなっていっただけなのかもしれない。没後30年近くたとうとしている今日でも、
熊谷守一の人気と評価はいっこうに衰えを知らない。
今でこそ熊谷守一の名は日本近代美術を代表する画家として広く一般にも知られて
いるが、熊谷の才能をいち早く見出し、評価し、さまざまなかたちでこの画家を援助し続けた
のが名古屋のコレクター木村定三氏(1913-2003)である。1938(昭和13)年12月に溯る二人の
出会いを木村氏は次のように回想している。「熊谷さんと初めて会ったのは、昭和十三年の
浜田葆光さんの肝入りで名古屋の丸善の画廊で熊谷さんの日本画の個展が開かれた時である。
...『蒲公英に蝦蟇』『蝦蟇に蟻』は私が此の時買った画で、値段はどちらも金五十五円だった。
私は熊谷さんの画は八大山人の様だと思い、その旨を当時黒田重太郎さんに話した処、
黒田さんは賛成して、更に『八大には凄味があるが、熊谷にはまるみがある』と云った。」
一方、熊谷の回想はこうだ。「名古屋の丸善の展覧会のときに、初めて木村定三さんに
会いました。木村さんはまだ金ボタンの学生風でしたが、いうことがいいんです。六十一歳の
わたしを掴まえて『絵が面白いから百枚までは買ってやる』というんです。今でもつき合って
いるところをみると、もう百枚以上になるんではないですか。このとき木村さんが買ったのは
『たんぼぼにひきがえる』、『蟻と蟇』でした。」(『蒼蝿』求龍堂、1976年)
《蒲公英に蝦蟇》《蝦蟇に蟻》はそれぞれ、木村氏独自の芸術観である「法悦感」と
「厳粛感」を代表する作品である。当時木村氏は25歳、熊谷は満58歳であった。
この半年ほど前の6月、熊谷は大阪阪急で日本画展を開催しており、隣の会場では同世代の
日本画家橋本関雪 (1883-1945)の展覧会が開かれていた。熊谷の10点近くの出品作全部を
集めても、関雪の一枚の絵の表具代にしかならないということだった。その程度の評価しか
されていなかった画家の作品に注目した若き木村氏の審美眼には驚かされる。
これ以降、木村氏と熊谷の親交は熊谷が没するまで続き、木村氏のもとには熊谷の
作品がコレクションされていくようになる。木村定三氏と氏の没後に美保子夫人からご寄贈いただいた熊谷守一の作品は約200点にのぼる。
ひとつの美術館ができてしまうほどの質と量の作品である。熊谷守一は一般的には
洋画家として知られているが、日本画や書など幅広い分野の作品を残している。
木村定三コレクションの熊谷作品は、油彩画約50点、日本画約100点、書約40点、
彫刻や陶磁器への絵付けなどが約20点と、熊谷が残したあらゆる分野の作品が網羅されている
ことにひとつの大きな特徴があり、それらを通じて熊谷芸術の多様性を知ることができる。
限られた展示スペースにこれだけの作品をすべて展示できないので、会期途中で日本画を
中心に50点程の展示替をおこなう。全作品を見ようとすると、前期と後期の2回観覧しなくては
ならないが、何度見ても満足いただける展覧会になるはずである。
(H・F)
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