シュルレアリスム/名古屋/北脇 昇

 名古屋はかつてシュールな都市であったと言うと人は嗤うだろうか。しかし、次のように言えば、やや頷いてもらえるかもしれない。名古屋は、昭和前期つまり戦争によって沈黙を強いられるまでは、日本におけるシュルレアリスム運動の展開に重要な役割を果たした芸術家を輩出し、東京、京都と並んで日本におけるシュルレアリスム運動の拠点都市であった。

 詩人・春山行夫は1902年(明治35年)東区で輪出用陶器の製造をしていた家に生まれた。名古屋市立商業を中退後は詩作に専念し、1922年(大正11年)には井口蕉花らとともにモダニズム詩誌「青騎士」を創刊、1924年(大正13年)には第一詩集『月の出る街』を上梓している。同年にやはり名古屋出身で惜しくも30歳の若さで夭逝した画家・松下春雄(1903-1933)に誘われて上京、1928年(昭和3年)に、瀧口修造の未完の詩論『詩と実在』をはじめ、西脇順三郎、上田敏雄、北園克衛らの論考が掲載され、日本へのシュルレアリスムの移植、定着に決定的な役割を果たすことになる季刊誌「詩と詩論」を創刊し、編集に携わっている。

 やはり愛知県の生まれで、名古屋高商在学中に西脇順三郎の従弟にあたる横部得三郎教授からフランス文学を学んだ詩人・山中散生(1905-1977)はNHK名古屋放送局に在職の傍ら、ポール・エリュアールやアンドレ・ブルトンらフランスのシュルレアリストと文通を重ね、かれらの著作を翻訳紹介するなど日本におけるシュルレアリスム運動の推進者として国際的に認知されていた。1937年(昭和12年)に、かれらをはじめとする海外のシュルレアリストから山中に送られてきたシュルレアリスムの資料をもとに、瀧口修造と共同で企画した「海外超現実主義作品展」は、東京、京都、大阪と巡回し、最後に名古屋で開催され、多くの画家に多大な影響を及ぼしたことはよく知られている。名古屋では7月10日から13日まで栄町の丸善で新愛知新聞の主催で開催され、画家ばかりでなく写真家にも衝撃を与えた。この展覧会を契機として山中散生と、山中と親交があり自身もシュルレアリスム文献を蒐集していた画家・下郷羊雄とを中心に「ナゴヤアバンガルドクラブ」が結成されたのがこの年の11月であった。そこには画家の大口清や吉川三伸、岡田徹らのほか写真家の坂田稔、さらには詩人たちも含まれていた。こうして名古屋はシュルレアリスムの白熱の季節を迎えたのである。

 北脇昇の代表作というばかりでなく日本のシュルレアリスム絵画の代表的作品である『空港』や『独活』が制作されたのもこの年のことである。北脇もまたこの「海外超現実主義作品展」を京都で見ており、山中や瀧口修造を迎えての講演会の熱心な聴衆でもあった。

 北脇昇もまた名古屋が生んだすぐれたシュルレアリストのひとりである。北脇は20世紀の初年、1901年(明治34年)の6月4日に名古屋で生まれている。春山行夫や山中散生よりも少し年長ということになる。父親の昇太郎は北脇が8歳の時に単身朝鮮に渡り、終戦直前に帰国し、宮崎で直撃弾の犠牲となったという。母親については詳しいことはわからない。ただ北脇が33歳になるまでは、おそらくは名古屋で生きていたらしい。北脇は10歳の時、父の従兄で、北脇にとっては叔父にあたる広瀬満正にひきとられ京都に移り住んだ。父も母もいない京都で人となり画家となったのである。1940年(昭和15年)に名古屋の十一屋(現 松坂屋)7階ギャラリーで美術文化協会の名古屋グループ展が開催された時に北脇は賛助出品した。その折におそらく来名したであろう北脇が生地でどのような感慨を抱いたかは知る由もない。今回の展覧会は没後50年近くを経ての、北脇昇にとっては久しぶりの里帰りとなる。

 

《空港》 1937年、 東京国立近代美術館蔵

《聚落(観相学シリーズ)》 1938年、東京国立近代美術館蔵

《眠られぬ夜のために》 1937年、 京都市美術館蔵

《独活》 1937年、 東京国立近代美術館蔵

 

北脇 昇展

1997年5月30日(金)〜 7月13日(日)

愛知県美術館

午前10時〜午後6時 金曜日は午後8時まで

(入館は閉館30分前まで)月曜日休館

観覧料 一般800円(600円)

高校・大学生600円(400円)

小・中学生400円(200円)

*( )内は前売り、及び20名以上の団体料金