ロッシーニの笑う大砲

笑いのバイブル・小澤の【ゼヴィリアの理髪師】

  

ロッシーニは生涯に三度泣いた。一度は、《セヴィリアの理髪師》の初演が散々な失敗に終わったとき。二度目は、パガニーニを聴いたとき。三度目は、フォアグラを水に落としたときだ。後の二つは生涯の不覚としていつまでも残ったが、最初の涙はすぐに乾いた。

当時も今も、イタリアの観客は名代のフーリガン。《セヴィリア》初演の当日、ローマのアルジェンティーナ劇場に、なにがなんでもロッシーニの成功を邪魔しようと、パイジェッロ派が大挙して押し寄せた。口笛は吹くわ、大声で野次るわ、手にしたガチャガチャは鳴らすわ、舞台の上に猫は放つわ、びっくりしたバジーリオ役はスッポンから奈落へ落ちるわ、歌手たちにわざとらしい拍手を送るロッシーニは一斉にののしられるわで、歴史上最大の「フィアスコ」(大失敗)となった。いかなロッシーニも途中で家に逃げ帰り、ベッドに潜り込む始末。

だが、したたかなロッシーニは笑う大砲をもつ。《セヴィリア》初演の涙は、再演の大成功で大笑いに変わる。それからというもの、《セヴィリア》は喜劇のバイブルとなり、「笑い」について深く思いをいたす者は、ベルグソンなどは読まず、ロッシーニを聴く。「笑いの基本」がここにあるからだ。

当夜、愛知県芸術劇場大ホールに座った私たちも、名うてのオペラ・フーリガン。笑う小銃を構えて待つ。指揮者の小澤征爾が小走りで登場して、「さあ、《セヴィリア》の始まり始まリ!」のっけから、シャンパンの泡となって序曲が沸き立ち、まず歓迎の拍手が盛大に鳴り響く。それに答えて、小澤もオーケストラの全員を立たせ、にんまりと微笑む。名古屋は、楽員・指揮・客の三者そろっていい関係だ。主役の男声三人は、おしゃべり自慢のイタリアっ子たち。対するロジーナは、人気の美人ソプラノ、ルース・アン・スウェンソン。ステージの、その華やかなこと!

パッとオペラ・カーテンが上がると、大勢の雇われ楽隊が、ロジーナのバルコニーの下で夜明けの歌「アルボラーダ」を騒がしく歌い始める。お目当ての人以外はみんな起こしてしまって、上から水をかぶせられる…といった、上方落語の趣で、まさに米朝の「門付け」(かどづけ)だ。小澤はむろん、米朝ではない。さりとて志ん生でもないので、「ロッシーニは志ん生にかぎる」という向きには、小澤の桂文楽調の交響曲的語り口は不満だろう。だが、お立ち会い、落語は志ん生と文楽、音楽はフルトヴェングラーとトスカニーニ、人間は理性と感性といった対概念ばかりで出来ているのではない。カントは、理性と感性との間に「構想力」を置いたが、小澤の指揮でロッシーニを聴くとカントの正しかったことが分かる。それが証拠に、当夜の舞台をとくとご覧になるがいい。螺旋階階でつながれた3階建てのバルトロの家が、プロセニアム一杯にデンと建つ。沢山の小部屋のブラインドを一つづつ開けながら、ロジーナが顔を出し、フィガロが歌い、バルトロが怒り、どたばた喜劇全2幕のすべてが演じられる。まさに、びっくり箱の世界だ、このがっちりした窓枠は、ロッシーニの音楽を区切るナンバー・オペラの構想であると同時に、小澤の音楽作りのフレーム・ワークとなる。彼は、巧妙に、音楽と劇の間にオペラを置き、歌手と俳優の間に喜劇を置く、これが小澤の「構想力」だ。

喜劇の基本は、虚構と現実がない交ぜになった「二重構造」。《セヴィリ》は、オペラ歌手が歌の稽古をしたり、オーケストラに合わせてお芝居の楽隊が演奏するといった、オペラ内の音楽シーンに事欠かない、お客たちも、あまりのことのばかばかしさに、幕の途中でぞろぞるとカフェーへ出かけると、ロッシーニも負けてはいない、「シャーベットでもたべておいでなさい」と、すかさず脇役に、聴いても聴かなくても劇に関係のない歌を歌わせる。小間使いのベルタが、突然、洗濯籠を放りだして、大声で「爺さんは女房を探し、娘は亭主をほしがるが、私はもう婆さんで…」と歌い出すのが、いわゆる「シャーベット・アリア」だ。またこれが良い歌で、ソンドラ・ケリーはこの一曲で、男を、いや、女をあげた。歌も音楽も、歌手もお客も、お芝居と現実とで二重に関わるので、ここも両名をつなぐ指揮者の「構想力」の出番となる。

喜劇の基本は、「人違い」だ。伯爵が、貧乏学生になったり、酔っぱらいの兵士になったり、音楽教師になったりと、なんど変装して現われても、伯爵の歌う音楽は、彼の示導動機となって彼から離れない。小澤の指揮が彼の仮面を暴いて見せるが、バルトロはそれに気が付かない。伯爵の正体があっさりばれると、あまりのことのばかばかしさに、舞台の上で石像のように全員が動きを止める。いつもながら運の悪いバルトロは、片足で立った瞬間にフリーズとなる。「活人画」による長いアンサンブルがいつまでも延々とつづくので、バルトロがついに耐えかねて軸足を変えると、客席からホッとした笑いと拍手がわく。エンツォ・ターラは、歌も上手いし、演技も上手いが、歌と演技の間に「笑いという構想力」を持った根っからのブッフォ役者だ。

喜劇の基本は、「繰り返しの面白さ」だ。伯爵が三度変装して、バルトロを三度だまし、三度とも邪魔が入って見破られる―――といった「いない、いない、ばあ」のプロット構成。それに、台詞の反復がこれに加わる。音楽教師に身をやつした伯爵が、バルトロに向かって、「パーチェ・エ・ジョイア、ご機嫌よろしゅう」となんども挨拶する面白さ。「ブオナ・セーラ、おやすみなさい」と、みんながなんども繰り返し歌ってバジーリオを追い出す滑稽さ。ここでも、芸達者な面々が、デイヴィッド・ニースの演出で羽目を外してわいわい騒ぐが、音楽は何とも美しいアンサンブルを聴かせる。音楽が劇に流されない―――――これが小澤の構想力だ。

初めての「小澤・ロッシーニ」を十分に楽しんだ私たちだが、あまりのことのばかばかしさに、「パーチェ・エ・ジョイア、ブオナ・セーラ」と挨拶もそこそこに、ご機嫌で別れたことであった。

都築正道(文)/木之下晃(写真)

1995年3月21日
愛知県芸術劇場大ホール
作曲:ロッシーニ
台本:C.ステルビーニ
指揮:小澤征爾
演出:デイヴィッド・ニース
舞台美術:アルフレッド・シェルケ
照明:高沢立生

※キャスト
アルマヴィーヴァ伯爵:ウィリアム・マテウッツィ
バルトロ:エンツォ・ダーラ
ロジーナ:ルース・アン・スウェンソン
フィガロ:パオロ・コーニ
バジリオ:ハリー・ピータース
ベルタ:ソンドラ・ケリー
フィオレッロ:河野克典
アンブロージオ:山本幸雄
隊長:志村文彦
公証人:寺本知生
合唱:東京オペラシンガーズ
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
チェンバロ:河原忠之

本公演に使われた舞台装置および衣裳は、サンフランシスコ・
オペラショップが制作したサンフランシスコ・オペラ協会所有のプロダクションです。