「映像は、物語を超えて存在する」

「吉田喜重 ドキュメンタリー映像の世界」講演より

 

劇映画とドキュメンタリーに境界はない。

 私は、劇映画と記録映画、ドキュメンタリーとの間の違いはない、というふうに考えて映画をつくっています。両方とも映像を通して何かを表現するという意味では、フィクションもノンフィクションも私にとっては同じなのです。もし、そこに違いがあるとすれば、ドキュメンタリーは、日常の中に非日常を見るというふうなことでしょうか。我々にとって当り前のこと、ありきたりの風景の中に、そうではない非日常的なものを読み取ることだと思います。もちろん、劇映画の方は、スクリーンに映っていることは非日常です。すべてが非日常。俳優の演技ももちろん非日常です。そこが違うということかもしれません。

 ただ、私がドキュメンタリーもフィクションも全くその間に境界がない、ボーダレスだというのには、確かに、私なりの個人的な、ある思い入れがあるからです。

私の「映像原体験」。

 私の中には、映像、あるいはドキュメンタリーについて、決定的な事件、出会いがあります。それは、終戦の直前です。昭和20年の8月15日、終戦、敗戦の日よりも4週間ほど前、私の生まれた福井の町、織物の町ですから、何も軍事的な施設はなかったのですが、大空襲を受けたのです。B29が120機ぐらい、人口6万ぐらいの小さな町を爆撃したわけですね。当時、私は12歳、中学1年生でしたが、家族はすでに農村に疎開し、私と女中さんだけが中学に通うために、一緒に町の真ん中にある私の生まれた家にいた。ちょうど真夜中の12時から空襲が始まるのですが、焼夷弾というのは、人間が逃げられないように外から焼いてくる。

 最初は、照明弾が投下されて全く昼間のように明るくなるんです。町の中にはまだ焼夷弾は落ちていませんでしたが、ただ、その異様な光景を見れば、当然これは逃げなきゃならないと、そう思うのは当り前です。ところが、いったんは火の中を通過しないと町の外には出られないんですね。どんどん、どんどん中心へ焼夷弾を落としていきますから、火が目の前に迫ってくるんです。私は女中さんと手を取り合って逃げたのですが、その手を離してしまい、気がついたときにはバラバラになって逃げていました。それぐらい目の前に火が迫ったんだろうと思います。

 それからのことは、ほとんど覚えてないです。ただ、ふっと気がついたときに私は、自分の生まれた家に向かっていました。町の中心へです。ですから一番危ない、必ず焼失するであろうところに向かって逃げていました。それは、子供ですから、鳥だとか動物が帰巣本能、危険があると自分の巣に向かって逃げ帰る、ということと全く同じだろうと思います。そのときには、町の人は逃げてしまって、周りには全く人がいません。静かでした。まだ燃えてはいません。ただ、家にいてしぼらく経って、やはりこのままでは命が危ないということはわかります。もう一度、火の中をかいくぐって町の外へ出たんですね。翌日の朝、7時頃、おばあさんがいる疎開していた農村に私はたどり着きました。幸い、女中さんも、その日の午後になってたどり着きました。そういう記憶があるんですね。

私の目が見るのではなく、目が私を見させてくれた。

 もうおわかりでしょうが、私は、奇妙な行動をしたわけです。危険であるはずの自分の家へ帰ってしまう。私の気持ちはもう混乱していました。でも私が無傷であったということは、私の目が私とは別に生きていたんですね。目の前に火がおおいかぶってくると、小さな川にでも、橋の下にでも入るんです。水があればいいと思うのでしょう。そういう選択をするのは、多分自分の判断でしょう。でも、それはもう次々にそういうことが起これば、そうした判断ではなくて、私の目だけが私をリードした、本能的に目が選択したんだ、と言っていいと思うのです。

 つまり、「これは危険だ、大丈夫だ」、それは私の意識ですが、その意識は、私に、言葉にならない物語をしているんですね。ところが、私の目は物語をしません。私に向かって何をしろとも命令しません。もう見ている瞬間に私の行為をリードしているんですね。目が私を助けてくれたんです。

 私はそういう意味では、人間の目を非常に信じます。そして人間の目は、自分で意識がなくても自分をリードしてくれる。逆に言えば、私は目を持ってる、所有しているのですが、目が私に何かを見せてくれるような気がするんですね。

 言い方を変えれば、こういう事だろうと思うんですね。例えば、いまこうやって私は皆さんとお話をする。これは、間違いなく私が喋っています。でもよく考えると、この言葉というのは私がつくったわけじゃないんです。私が生まれる前からあった。それは教育され、習得されたものです。だから、私が喋ってるんじゃなくて、言葉が私を喋らせる、というのが本当なんです。そう言うべきなんですね。我々が、私が喋ってるんじゃなくて、言葉が私たちに喋らせてくれるわけですね。そういう意味では、私が見てるんじゃなくて、目が私を見させてくれるんですね。

 そういうふうなことが多分、大袈裟に言うと、私の中に、いまも生きている原体験といいますか、そういうものとして、たえず思い返されてきたのです。

人間は物語を必要とする。しかし、物語に裏切られもする。

 映画監督という私の仕事も、戦後の名残りがまだ色濃い、昭和30年に、生活のための一つの職業として選択したということで、むしろ皆さんからすると奇異に思われるくらい、縁が薄い関係で始められたのです。ですから、映画をいかに作るかということよりも、私が12歳のとき経験した、自分の目が自分を超えて先にあるんだというような意識、そういうことの方がはるかに私の中では重い意味を持っているんですね。それが多分、劇映画の区別もないし、ドキュメンタリーの区別もないということになるのだろう、と思うんですね。

 それからもう一つ、私の中に、劇映画に対しての大きな不安というか、疑問があるんです。人間が自分を物語る、自分はこういう人間である、あるいは自分の家族はこうである、自分の将来はこうであるというような、自分がつくり出す物語、自分の物語というのを必ず皆さん持っておられると思うんですね。

 もっと簡単に言えばこういうことだと思うんです。我々は生まれた、誕生したわけですね。でも我々は、それを偶然だとは思いたくないわけです。両親が愛し合って自分を生んでくれた、愛の結晶として自分が今いるんだと、大抵、そう思いたい。でも実際はどうでしょうか。我々は何もそこに関与しなかったわけです。生んでくれと言ったわけでもない。それは偶然としか言いようがないわけです。でも、その偶然に耐えられないから、我々は両親が愛し合って自分を生んでくれたという物語、ストーリーをつくるわけです。そして今の、現在の自分がある、生きている、存在してる。これは物語なんですね。私が言う物語とは、そういう物語なんです。

 人間が生きるためには物語が必要です。物語をつくらないと人間は生きられないんですね。私ももちろんそうです。ところが、その物語が裏切られる、というよりも、そのように、物語が成立しないということも我々は知っているわけですね。

 つまり、人間というのは、そういう、物語が必要でありながら、それが成り立たないということを知っている、いわば、矛盾の動物なんですね。そういう矛盾の動物に対して、我々をそこから救ってくれるのは、実は目とか言葉なんです。私たちがどんなに孤独になっても生きられるとすれば、それは言葉を持っているからなんですね。多分、じっと1日黙っていても、声にならない言葉で自分と対話をしているんですね。皆さんもそうだと思うんです。私が言う言葉とは、そういうことなんです。話された言葉という意味じゃなくて、もっと広い意味で理解していただければ、と思います。

スクリーンは私の目だ。

 ですから、我々が身につけた言葉、我々の目、あるいは耳、そういうものが我々を救ってくれる。人生という物語が崩されても、我々を支えてくれる。それが、人間のこの世界なのではないか。

 私が映画をつくろうという欲望の中には、さっきお話した私の目の問題があるわけです。映画と私のあいだに、私の目があるわけです。私はその目に導かれて映画を撮る、と言えば大袈裟かもしれませんが、目が私を見させてくれる。そのことを私は自分の原体験として持ちつづけているわけですから、私のドラマは、私のつくってる映画のスクリーンの中にはないんですね。あのスクリーンは私の目でしかないんです。多分そういうことが「私の中の映画」なんだろうと思います。それが私のドキュメンタリーであり、映画であるのです。

(採録・構成 TE) 

 

 この講演は、特集上映会「吉田喜重 ドキュメンタリー映像の世界」(10月19日より31日まで開催)の最終日にあわせて行われた。上映会は、映画監督として著名な吉田喜重の、知られざるもう一つの側面であるドキュメンタリー作品を特集し、その仕事から、劇映画とドキュメンタリーのジャンルの違いを越えた映像芸術の本質を追求し、その豊かな可能性の一端に触れるものであった。